うつと過食とパニックと、何とか生きてきてこれからも生きてく

うつ、過食、パニック発作と一緒に生活しているアラサーのブログ。何とからく~に力を抜いて生きていける道を模索中。

自分自身のとらわれを手放す方法

昨日ずどーんと落ち込んだ事もあり、夜は久しぶりにぐっすり寝ました。
実は不動産屋さんに行く日は朝4時頃まで眠れなかったのです。ザ☆小心者
あと、枕の位置を反対にしたのも良かったのかな?
今まで、ネットのルーター近くに頭があったんですけど、ずっとルーターの明かりがついていたからか、ぐっすり眠れていなかったんです。工夫してみるもんです。

 

今日は、病院に受診の日。なんとか起きて1Hかけて行きました。
心配事が一つ。「新しい保険証届いてないけど大丈夫なのだろうか…?」

 

私は、国民健康保険には切り替えておらず、
前職場の共済組合の「任意継続組合員」というのに申し込んでいました。
前職で1年以上共済組合員であれば、退職後も、希望で2年まで短期給付(健康保険、人間ドックなど)を受けられるらしい。
年金はだめ。
毎月掛け金を1ヶ月分ずつ支払います。

 

3月末、職場の事務の方に以下の事を聞いていました。
「4月7日に受診の予約があるんですが、それまでに新しい保険証は届きますか?」
「掛け金を振り込んでいただければ、なるべくすぐに手続きしますが…何日まで、というのはわからないです」

3月末までにお金は振り込んであったので、保険証届くかな~とのんきに待っていたのです。
というか、今日までに電話で事務に聞けばよかったのです、今思えば。

 

結局保険証は届かず、「まあ病院の人に事情言えば、次回の時に確認でいいですよって対応してくれるかなあ~」とのんび~り考えて、病院に行ったんです。

 

でもね、受付の方は、ばっさり。
「今日保険証が無ければ、今日の分は自己負担になります」

おう。まじか。まあ、そうよね。

 

私の場合、まだ薬のあまりがあったので、とりあえず来週に予約を変更してもらいました。
私みたいな病状だったらいいけど、本当に薬毎日飲まないと命の危険がある人だとどうするんやろ。とぼんやり思いました。まあ、そういう人はしっかり手続きしてるか。

 

病院=私の前職場なので、その足で事務へ。
以上の経緯を説明して、来週には保険証が届くか聞くことに。

「保険証のカード自体の発行は、4月末になると思います」
えっ、まじか。そんなに遅いの???

ただし、掛け金を払い込んでいれば、「組合員資格証明書」という仮の証明書がもらえて、それを見せれば、3割負担で受診できるらしい。
それは来週月曜日に発送していただけるらしい。

 

まあ、良かったか。
それまでに急病になったら怖いよね…準備大事…
離職票もまだ届いてないしな~。4月10日すぎても来なかったら職場に電話しよう。

 

帰り道、調子悪い日だったり、落ち込んでいる時だったらこう思ってただろーなー↓と考える。
「やっぱり世間は危険な所だ。1度失敗すると、誰も味方になってくれない」
「私には病院に行く権利もないんだ。(→もう病院行くのやめちゃおう)」

認知の歪みがすごくある事は、自分でもわかるのですが、
それでもやっぱり「この世界は怖くて危険な場所。自分がしっかりしていなければ生きていけないぞ」という思いは、私の中で強いです。

 

今、図書館で借りて読みすすめている、『ダイエット依存症』水島広子 によると、
評価されるだけの人間関係(条件つきの愛情、肯定的関心)が、親子関係などで刷り込まれると、他の人はみんな自分を評価する存在だ、と思うようになるそうです。

 

つまり、生きていくということは、自分の「形」(他者から見た評価)を整えながら、批判されないように常に警戒していく事、という考えが、心に深くしみ込むそうです。

 

ほんとそれなんです、と腑に落ちました。
常に戦場にいる兵士のような気持ちで、今まで生きてきたのですが、その気持ちは言葉にすると、こういう事だったのかあ~!と気付かされます。

 

生きやすくなるには、自分自身の評価を手放す、すなわちあるがままを受け入れる、受け入れてもらう事が良いそうです。
特にこの水島さんの本では、対人関係において、実際に自分の意見を伝えて、相手の反応を受け取り、また反応を返す、という事を、訓練としておすすめしています。

 

ありのまま、って難しいですけど、「全部全部受け入れて!」って相手に求める事はもちろん違います。
「今の自分でいいんだ」っていう感覚とか、「○○だから(痩せていれば、成績が良ければ、お金をたくさん稼いでいれば)愛される」という「条件つき」の関係から離れて、自分の存在まるごとを肯定できる感覚、とかが近いでしょうか。

 

さらに、私が「その通りや…」と思った点は、
他人からどう評価されるかということにとらわれている人には、想像上の人間関係は多いけれど、リアルな人間関係は少ない。

例えば、「こんな事したら○○だと思われるのではないか」「きっと○○と言われるに違いない」と、頭の中では相手が大活躍していますが、実際に相手とのやりとりはほとんどない、事が多いそうです。

 

私も本当にこの通りで、今まで、他者の言葉で傷ついた経験が積み重なり、評価に過敏になっているので、自分の本心を言うことはなかなかできません。
そのため、表面上は対人関係にも問題ないように見えても、すごく疲れています。

積極的に自分から関係を持とうとはせず、関係もごく浅ーいものになっています。
未だに、特に両親の事は、「一番危険な存在」と認識しています。その一方で、本当は愛されたかった、褒めてほしかった、という思いも持っています。それなのにそんな自分とは真逆の、過食や、仕事を辞めても言えないで嘘をつく、という行動をしてしのいでいるのです。

 

やっぱり、一人っきりでいるよりは、少しずつ人と関わっていく方が良いんですよね。きっと。
もちろん、あまりに虐待的な人とは距離を保った方がいいですし、社会では優しい人だけではない。それでも、うまく自分の気持ちを外に出して伝えていく練習を、少しずつしていく事で、自分も楽に生きられるようになっていくのかもしれません。

 

私のイメージでは、今までは私だけが、過去の事に縛られて、手を離せずに、呪いをかけられたように、背中を向けている両親の服を握りしめているような感覚がしていました。
でもこの本を読んだ後、もう大人だけど、捨てられずに持っている風船を、一つずつふわ~っと空に放してあげるといいのかなあ、という感覚に変わりました。
呪いよりは、風船の方がいいですよね。

 

今は人と話す機会も少なくなってますが、数少ない友人は遊んでくれるので、少しずつ試していこうと思います。